呉服(くれは)神社
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呉服(くれは)神社

 大阪府池田市にて、繊維の祖 呉服(くれは)大明神と、第16代 仁徳天皇をお祀りしている神社。

 第15代 応神天皇の命によって、織物・染織の技術を取り入れるため、中国の呉に遣いに出された猪名津彦命(いなつひこのみこと)に伴われて、当時高度な技術を持っていた、いわゆる“西素(さいそ)”と呼ばれる呉服(くれはとり)綾織(あやはとり)という姉妹が日本に渡ってきました。その時、蘇州→高句麗→百済→対馬→壱岐→博多→西宮(津門(つと))→池田と渡ってきたようです。到着した時に機殿を建てた、池田の港は、今、“唐船ヶ渕(とうせんがふち)”と呼ばれています。
 そして呉服と綾織は懸命に“染殿井(そめどのい)”で糸を五色(紫・白・赤・黄・緑)に染め、“星の宮(ほしのみや)”で機を織り、五月山の山麓にある“絹掛松(きぬかけのまつ)”に掛けたと言われ、今でもその跡は残っています。
 第16代 仁徳天皇の時、呉服は139歳で亡くなりました。この機織技術は4世紀の産業革命といえるほどのものであったため、仁徳天皇は功績を称え、呉服の遺体を“姫室(ひめむろ)”に納め、翌年、勅令を以って御神祠を建てられたとされています。その後、第96代 後醍醐天皇が“呉服(くれは)大明神”と名付け、仁徳天皇とともに神社に祀り、今に至ります。衣服に“呉服(ごふく)”と名付けたのも後醍醐天皇の頃です。
 ちなみに今、呉服(姉)が祀られている呉服神社が里の方にあるので“下の宮”(下秦社(したはたしゃ))、綾織(妹)が祀られている伊居太(いこた)神社は山の方にあるので“上の宮”(上秦社(かみはたしゃ))として呼び親しまれています。

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機織技術が伝わって、どのように衣服が変わりましたか?
顕著だったのは、寒暑区別ができるようになりました。呉服と綾織が来日するまでは、木の皮や獣の皮などをまとっていたので、素晴らしい革命だったようです。そして徐々にではありますが、下々の方まで“手軽に”“快適に”過ごせるようになったようです。
なぜ呉服と綾織は別々の神社に祀られているのですか?
残念ながら資料として残っていないため想像ではありますが、池田は広かったので、その土地の人々が山と里に分けて一人一人を崇拝していたのではないでしょうか。
なぜ絹が“呉服(ごふく)”と呼ばれるようになったのでしょうか?
糸を紡いで布にすることを“呉機(くれはた)織り”と言い、その言葉が縮まり“くれはとり”になり、“呉服(くれは)”になったようです。“くれは”の漢字を現代読みにすると“ごふく”となりますし、呉の国から来たものということでも調度良いネーミングだったのだろうと思われます。
拝殿が赤と緑というとても鮮やかな色合いなのですが、どうしてですか?そしてなぜステンドグラスなのですか?
後醍醐天皇の時に作られた拝殿だったので、かなり傷んでいたため、大阪万博の時に全てやり直しました。前は本殿と同じように木のままの色をしていたのですが、呉服が中国から来られたということで、中国をイメージして作りました。またステンドグラスは、長崎の天主堂をイメージして、これも中国的に鳳凰を入れたり、呉服神社の紋(糸巻き)を入れたりして作りました。
呉服神社では何をお願いすればいいのでしょうか?
染織・機織の神様ということで、服飾関係の方がよく来られます。が、その他の方でも、はるばる呉服が渡来してきたので家内安全や交通安全、呉服の139歳という長寿にあやかって健康・長寿、優れた技術力にあやかり諸芸上達などを祈願されるといいですよ。

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インタビューを終えて

 大阪にこんな素敵な伝説の残る場所があっただなんて☆ 星の宮、染殿井、絹掛松、それぞれ距離があり、昔はどのようにしてその場所まで運んで行ったのか・・・天女のように空を舞って行ったのでしょうか? 想像は膨らみます♪
 このようにルーツを探るというのはとてもおもしろいですね!更に着物への愛着がわきました。もっと深く知ってみたいです。 
 お忙しい中、たくさんのお話、ありがとうございました!!

2005全日本きものの女王 入野佳子

 自分の普段の生活の中では、決して関心をもつことの出来なかったお話を、伝承の現場で関係の方々から直接、聞くことによって引き起こされた感動はとても新鮮でした。
 今回のインタビュー・取材によって得られた感動のおかげで、きものに対する愛着がいっそう深まりました。
 きものの女王として、より多くの皆様にきもののよさを伝えていきたいと思います。
 有難うございました。

2006全日本きものの女王 石田明子

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